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恩師が死んだ。



交通事故だった。
夜遅く、連絡もなく一向に帰ってこない夫を案じた夫人が警察に連絡を入れたところ、帰路の途中でカーブの側溝に乗用車ごと突っ込んでいたのだという。
警察は詳細を知るべく事故当時の証言を募っているらしいが、事故の要因は、なんとなく予想がつく気がする。

数多くの教え子を名門校に叩き込んできた超エリート英語教師が、自分のクラス主任であった。
彼のおかげで自分もまた高3夏の現時点、既に名門外語大への進学が決まっていた。
彼を恩師と呼ぶ所以はそれである。
500単語の長文の暗記暗唱を生徒に課す超スパルタであったが、その生徒に課すより数倍長く難解な文章を、彼はまた己にも課していた。
いつでもどこでもひとりでぶつぶつとやっていて、難解なセクションに来ると、いつも決まって目を閉じて上を向く癖があった。
そして、あー、と言って動きが止まる。
その夜、そこがたまたま側溝のあるカーブで当たりでもしたのだろう。
重要なイディオムの記憶を手繰り寄せているうちに逝ってしまったのだ。
それが「らしい」最期な気がする、あの人は。


くだらないことを推測しながら、自分は葬儀会場にいた。
制服を着込んで仏前に座を組む。
周囲には大勢の同期生。
目の前には黒い額の写真。
その陰の骨壷。
耳にこもる読経と、あの日彼の机で流れていた英国ラジオの平らな声が重なっていく。
最後に会った時、自分と彼は週末の放課後の職員室にいた。



「模試の解き直しの提出はいつだった」
「先週の木曜です」
「今日は何曜だ」
「金曜です」
「おれ一週間以内に出せって言ったよね」
「はい」
「なんで持ってこない」
「   」
「黙ってんじゃねえよ」
「いてッ」
「毎回きっちり出してくるお前だから特別一週間待ってやったんだぞ。なんだお前、出さないっつったらとことん出さないのか。行き先決まってるからって調子乗るなよ」
「あの、合宿あったんすよ」
「他の奴らは出してるじゃねえか」
「聞いてくださいって。俺だけ向こうでカレーに食あたりして半死状態に」
「うるせえ」
「いやマジですって」
「いいか、来週頭に絶対持って来いよ。そん時忘れたらもう待たないからな。向こうにも連絡して合格取り消しだ。分かったな」
「持ってきます。でもカレーはマジで」
「分かったな?」
「…はい」



そして土日明けのこの月曜日である。



御焼香の順番が回ってきた。
あれだけ受付で出せと言われたのに、生徒らが直接仏前に持ってきたお別れの手紙だの色紙だのが、献花の横で山になっている。
自分が恩師と慕った教師は、他大勢にとってもまた恩師であった。
むせ返る煙の向こうで写真の当人は得意そうに笑っている。
いや、礼儀のない教え子らに苦笑しているのか。
いずれにせよ、そのひとりである自分も不作法に山を高くする。
今朝封をして来た薄い封筒は下の諸々よりも一回り大きく、山頂で不安定に揺れた。
香をひとつまみ散らす。
手を合わせる。
目を閉じる。
先生。



…先生。
他のみんなが何拝んだのか知らないけど、俺は来週絶対出せ出さなきゃ取り消しだって言われたので、解き直しを出しに来ました。
封筒に入れといたんでよろしくお願いします。
今後に及んでもう出さなくていいからとかまじ殴りますからね。
あと、カレーで腹下したのはほんとガチです。マジです。
なんか先週信じてもらえなかったっぽかったので、証拠として封筒に病院行った時の明細書も入れときました。
日付もちゃんと合宿の次の日ですからね。確認してください。

それだけです。
あんまりいきなりすぎて、今までお世話になりましたとか忘れませんとか言う気分でもないです。
改まるかんじでもないし、何を言ったもんかも全然分かりません。

なのでとりあえず、これからもがんばります。
先生がスパルタしてくれたおかげで俺は英語は万全です。
これを軸にして大学でも英語力落とさないように、がんばります。
んで、落ち着いて、いろいろ言いたいことが出てきたらまた来ます。
そん時に話聞いてください。
じゃあ。

あ、解き直しと明細書見たらいつもみたいにハンコは無理だと思うんで、なんか「見ましたよ」って分かる合図とか送ってください。
ちゃんと身の潔白証明できたか確認したいので。
もしもできればですけど。
あ、でも化けて出んのはナシで。
いや、先生だからいいか。



手を合わせながら気づけば笑みを浮かべていた。
さぞ不謹慎と近親縁者たちは思っただろう。
それほど彼の死は実感がなかった。
息をついて席を立つ。
ずれた座布団を直してふと顔をあげれば、そこには写真の彼が笑っている。
週末の放課後、カレーがカレーがとわめく自分を胡散臭そうに見ていたあの顔とは似ても似つかない、遺影にふさわしいさわやかな笑顔。
ほらな。
また笑ってしまう。
ほら。この遺影だってまるで別人の様相だ。
後続が詰まるので急いで立ち退いた。
自分の席に戻りながら思う。
この笑顔とあのカレーの顔が同一人物の記憶になるころに、きっと自分は2度目のさよならをしに来るのだ。





次の休日、電話に出たら相手は麗しの恩師夫人だった。

「もしもし、先日の名簿にあった電話番号からお電話させていただきました。先日は葬儀に御参列いただきありがとうございました」
「あー、はい」
「仏前に封書を出していただいていたかと思ったのですが」
「あ、出してました」
「ですよね。そちらなんですけれども、いただいていた手紙類はあの後も全て仏前に置いていたのですが、昨夜線香か何かが倒れたみたいで、いただいていた封筒が燃えてしまいまして…。他のものは大丈夫だったのですが、こちらだけ…。本当に申し訳ありません」

…ああ。

(なんか「見ましたよ」って分かる合図とか、)

そういうやり方か。



先生。
これで分かったでしょ。



俺はほんとにカレーで食あたりしてたんですよ。







(C先生に捧ぐ)







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